「事実に角度を付ける」という言葉について、記者としてまじめに考えてみる

 「事実に角度を付ける」…2014年を締めるに当たり、このやっかいなキーワードの問題を整理しないわけにはいかない。いちメディア企業の問題でなく、現場の記者職が皆で考えるべき問題と思えるからだ。


 今年の重大ニュースとなった「吉田調書」報道問題について、ある朝日新聞記者OBの方は「命令違反ではないが、『退避』は事実だった。事実に『角度』をつけることは『解釈の違い』に過ぎない。社長会見は情けない。社員は何をしているのか」と発言したという(https://web.archive.org/web/20141212102157/http://www.jrcl.net/frame141117b.html)。


 また、もう一つの問題である「吉田証言」報道問題を調査した第三者委員会の委員は、何人もの朝日社員から「角度をつける」という言葉を聞いた。「事実を伝えるだけでは報道にならない。朝日新聞としての方向性を付けて、初めて記事になる」と(http://www.asahi.com/shimbun/3rd/2014122201.pdf)。委員の一人はこの点について、報告書で「事実だけでは記事にならないという認識に驚いた」とし、「記事に『角度』をつけすぎるな」と批判している。


「角度を付ける」とは何か?

 もし「角度を付ける」の意味が、新聞OBの方の発言通り「事実に独自の解釈を加える」、つまり記事にエッジを付けることを指すのなら、それは必ずしも問題視されるものではない。ネット上でも、同じく「角度を付ける=事実の解釈にバイアスを付ける」との解釈が見られたが、記事からバイアスを完全に排除することは不可能だし、そもそもバイアスの存在自体が悪いわけではない。


 例えば、同じく今年の重大ニュースだったベネッセの漏洩事件について、ある記者は子どもの個人情報が漏れたことを問題視する一方、別の記者は決算への影響を問題にした。同じ情報セキュリティというテーマについても、「ベネッセのセキュリティ体制は問題だ」と解釈する記者もいれば、「セキュリティ対策に熱心だったベネッセですら漏洩は防げなかった。漏洩対策は難しい」と解釈する記者もいるだろう。


 事実の解釈、もっといえば「何を『問題だ』と解釈するか」は、それ自体が記者の存在意義でもある。例え99%の人間が問題にしていなくても、記者が「問題だ」と考えたなら、それは記事になりえる。原発の安全性、子どもの貧困など、当初は大半の人間が問題にしていなかった事象が、後に大きな社会問題になるケースは多い。


 さらに言えば、問題を取り上げる上で「事実を大げさな表現で語る」手法も、必ずしも否定されるものではない。例えば舞台において、役者の衣装が現実以上に華美なのは、現実そのままの衣装だとかえって「みずぼらしい」との印象を与えるためだ。ただ聞いた話を書くだけではどうしても平板な記事になりがちで、一定のストーリーに載せる形で文章を紡ぐ、ストーリーテリングの手法が多く採用されている。


テクニックで事実を誤認させる

 一方、今回の「吉田調書」報道で起きたのは、度が過ぎるバイアスといった話ではなく「文章上の作為で、質的に異なる事実を読者に誤認させること」だった。


 「吉田調書」報道の文章の構造をみると、「命令違反」という言葉を"意図的な違反"と"伝達不備による違反"と広義に設定していることが分かる。その上で、事実は後者(伝達不備)だった可能性も踏まえて表現を工夫しつつ、記事中では大半の読者が前者(意図的な違反=逃げた)と解釈できるストーリーを展開した。


 この問題を調査した報道と人権委員会(PRC)の報告書(本社「吉田調書」報道 報道と人権委員会(PRC) の見解全文1 | 朝日新聞社インフォメーション)には、「バイアス」という言葉も「思い込み」という言葉も出てこない。


 報告書によれば、記事の執筆担当者らは「記事では慎重に『命令に背いた』『逃げた』という表現を用いないという配慮をした。しかし、指示したこととは違う結果になったのだから、『違反』という言葉を選択することは許されると考えた」と証言している。「命令違反」という言葉に、日本語としてはありえるが一般的な用法とは質的に異なる定義(=「指示したこととは違う結果になった」)をあてはめ、それを意識しながら記事を書いたわけだ。後にこの報道への批判が相次いだ際も、担当次長は「少なくとも外形的には命令違反の行為があったことは間違いない」と主張し、この論理で対処していくこととなったという。


 これに対して委員会の報告書は、「違反」という言葉の定義に幅を持たせる手法を認めず「『所長命令に違反』したと評価できるような事実は存在しない。裏付け取材もなされていない」(PRC委員会)と厳しく評価した。


事実誤認の誘導は、メディアの経営戦略としてもダメ

 こうした形での「角度を付ける」行為について、冒頭の新聞OBの証言にみられるように、こうした文章テクニックが通用し、推奨された時代があったのかもしれない。だが、あらゆるメディアの記事がネット上で比較される現在において、こうした文章テクニックを是とするのは、記者の倫理のみならず、メディアの経営戦略としても明らかに悪手だと思う。


 理由は二つある。1つは、こうした誤認の誘導は、それ自体が外形的には「誤報」でなくても、異なる場面で明らかな誤報を誘発するからだ。


 海外メディアは「吉田調書」報道を受け、記事を引用する形で「原発作業員は命令を無視し、逃亡した」と報道した。さらに朝日新聞社内の人間すら事実を誤認し、英訳版では記事タイトルを「90% of TEPCO workers defied orders, fled Fukushima plant(9割の東電所員が命令を無視し、逃げた)」と訳していた。


 報道は、ある特ダネ報道を起点に、カスケード上に広がることがある。それだけに、その起点である特ダネ報道に事実の誤認を誘う表現があると、当のメディアにも制御不能な形で「誤報」が拡散してしまう。


 もう一つは、この手法を是とすると、「誤報だ」「誤報でない」との言い争いが起きやすくなり、それがメディアの信頼を失墜させるリスクが高くなることだ。


 例えば、吉田調書で問題になった「『命令違反』の定義」のほか、慰安婦問題では「『強制性』の定義」、さらには同じく2014年に問題になった特許法改正報道における「『無条件』の定義」でも、まったく同じ対立構造がみられた(朝日西尾邦明記者「『特許、無条件で会社のもの』は誤報では無い」??? - Togetter)。


 今回、朝日新聞が「吉田調書」報道を取り消し扱いにしたのは、その誤認が記事の根幹を変えてしまうケースだったためだ。そうでない限りにおいて、メディア側がこうした手法について進んで「取り消し」「誤報」と認めるのは難しいし、何を誤報と定義するかは最終的にはメディアの判断に委ねるほかない。だが、まさにそのために、「外形的には正しいので、誤報ではない」とするメディアと、「読者を誤認させたのだから、誤報」とする読者側で、不毛の争いを誘発してしまう。この争いが、メディアのブランドイメージにいい影響を与えるはずがない。


まとめ

 「メディアが特定の論調に沿って記事を書く」のと、「文章テクニックで事実を誤認させる」のとは、似て非なる事象です。前者は、むしろメディア空間の多様化に寄与しているところでもあり、これを「角度を付ける」という言葉で同義に語るのはヨクナイ、というお話でした。