【書評】佐々木俊尚著「『当事者』の時代」

 佐々木俊尚「『当事者』の時代」読了。記者であれば誰しも抱える原罪を、様々な角度から考察した本、と解釈した。


 東日本大震災を取材した記者の過半は、「被災した当事者とは、根本から立場が違う自分」に、ある種の罪の意識を抱えていると思う。当事者の話を聞けば聞くほど、その当事者と自分との立場の違いが可視化され、そのあまりの溝に愕然とする。それは、災害報道のみならず、犯罪報道や戦争報道など、第三者としてしかかかわれない記者が常に抱える懊悩であり、弱みである。


 この懊悩から逃れる方法が二つある。一つは、本書が「マイノリティ憑依」と呼ぶもので、自らの視点を(いわゆる)弱者と同化させてしまう方法。自分を「マイノリティの代弁者」と思い込ませる(洗脳する)ことで、懊悩から逃れるどころか、快感すら得られる。少なくとも90年代までは、マスコミの言説はこの「マイノリティ憑依」に支配されていた、と佐々木氏は考えている。


 そしてもう一つが、終章で佐々木氏が示したとおり「自分が当事者であることを追い求める」ことである。


 終章で書かれたことは、日本のジャーナリズムに「こうせよ」と押しつけるものではなく、記者としての佐々木氏の独白、決意表明に近いものだ。「負け戦であっても闘うことにのみ意味がある」とという表現にあるとおり、記者が当事者性を得るための方法は、本書にはほとんど示されていない。


 その代わりに挙げているのは、記者がはからずも当事者になった例だ。例えば身内がバス炎上に巻き込まれたカメラマン、震災で記者が「被災者」という立場も背負うことになった河北日報や石巻日日新聞といった事例である。(私ならそこに、医療問題を書き続けた記者が、次男の脳死に直面した体験を記した「犠牲(サクリファイス)」を加えるかもしれない)ブログやSNSを通じて当事者が発信し、それが大きな説得力を持つ時代。自らも当事者性を持たねば、記者としての立ち位置が保てない、という危機感が、本書からは伝わってくる。


 ただ「マイノリティ憑依」「当事者性」という言葉には、今後のジャーナリズムを考える上で危うい要素も含まれている、とは指摘せざるを得ない。非当事者が無理に当時者たらんとすることは、本書で取り上げた本多勝一の事例にもあるように、一歩間違えばマイノリティ憑依と同じ状態に陥ってしまう。そしてマイノリティ憑依という言葉自体、「共感して語る」「2人称で語る」という言説の可能性を抑圧しかねない危険性もはらむ。当事者が、非当事者としてのジャーナリズムを(批判でなく)否定する流れに向かうのもまた、言論の多様性という点ではマイナスである。


 記者からブロガーまで、あらゆる表現者が「当事者として語るか、非当事者として語るか」を常に自覚し、当事者と非当事者が互いの言説をクロスチェックする。そこに、SNS時代のメディアが持つ新たな可能性がある。あえて「非当事者」を選び、原罪を背負うのも、記者としてのあり方だと思う。