ソフトウエアと宗教のアナロジー、書評:「ふしぎなキリスト教」と「浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか」


 「ふしぎなキリスト教」と「浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか」読了。筆者独特の史観や解釈がそこかしこに見られるが、独自の解釈を全面に押し出した方が初学者には分かりやすい、というお手本のような本だった。「神との契約は、一種の安全保障なんですよ」(ふしぎなキリスト教)「かつての延暦寺は銀行、商社、ゼネコンだった」(浄土真宗〜)など、刺激的な解釈がポンポンでてくるので、読んでいて飽きない。


 面白かったのが、いずれも宗教、宗派の生存戦略に細かく触れている点。例えば仏教では、本来は加持祈祷のような現世利益の追求とは無縁だった宗派が、こうした現世利益の要素も取り入れることで、勢力を伸ばすことに成功した、など。教義について細かく説明する宗教入門本は数あれど、「なぜこの宗派は生き残り、この宗派は消えたか」についてマジメに考察した本は珍しい。


 それにしても、宗教が分派したり、統合したりする様ってソフトウエアとよく似ているなあ、とムダに想像を働かせてみる。


 例えば、Windowsのようなプロプライエタリなソフトウエアは、コードが未公開で、改変も認められていない点で、聖書がラテン語でしか読めなかった時代のカトリックに近い。当時のローマ・カトリック教会は、聖典(コード)の解釈権を独占することで、プラットフォーマーとしての絶大な力を政治や社会に及ぼした。カトリック教会は公会議を通じて聖典の解釈を統一していたので、分派というものは存在しなかった。


 ルターが聖書を誰でも読めるドイツ語に翻訳したことに端を発する宗教革命は、ソフトウエアにおけるオープンソース運動と解釈できる。聖典を誰もが自由に解釈できるプロテスタントは、プラットフォーマーとしての教会の独占権を否定した。その代わり、誰もが聖典を解釈できる(コードを改変できる)ことから、数多くの分派(フォーク)が生まれた。


 オープンソースに分派が発生しやすいとはいえ、LinuxにおけるLinus氏のような教主(精神的支柱)がいる間は、そうそう分断化は起こらない。だが、その支柱が失われたり、あるいは教団(コミュニティ)を支援するスポンサーの方針が変更したりした場合、分派が発生しやすい。最近ではOpenOfficeからLibreOfficeが派生した事例がそれに当たるだろうか。


 GoogleオープンソースOS「Android」は、プロテスタントカトリックの中間的存在のようなもの、と解釈できる。基本的には教主(Google)が広く聖典を公開しているが、それを受け取る信者(メーカー)は勝手にコードの改変を進め、数多くの分派が現れた。このため教主(Google)は方針を変更。CTS認証でAndroidの互換性を管理したり、最新バージョンのソースコードの提供を一部の友好的メーカーに限るなどの施策を採った。これにより過度の分断化を抑え込み、カトリック教団のごときプラットフォーマーとしての影響力を維持している。


 以上、プラットフォーム戦略を宗教の生存戦略のアナロジーで考えると、面白いけどかえって分かりにくくなる、という話でした。まる。