「事実に角度を付ける」という言葉について、記者としてまじめに考えてみる

 「事実に角度を付ける」…2014年を締めるに当たり、このやっかいなキーワードの問題を整理しないわけにはいかない。いちメディア企業の問題でなく、現場の記者職が皆で考えるべき問題と思えるからだ。


 今年の重大ニュースとなった「吉田調書」報道問題について、ある朝日新聞記者OBの方は「命令違反ではないが、『退避』は事実だった。事実に『角度』をつけることは『解釈の違い』に過ぎない。社長会見は情けない。社員は何をしているのか」と発言したという(https://web.archive.org/web/20141212102157/http://www.jrcl.net/frame141117b.html)。


 また、もう一つの問題である「吉田証言」報道問題を調査した第三者委員会の委員は、何人もの朝日社員から「角度をつける」という言葉を聞いた。「事実を伝えるだけでは報道にならない。朝日新聞としての方向性を付けて、初めて記事になる」と(http://www.asahi.com/shimbun/3rd/2014122201.pdf)。委員の一人はこの点について、報告書で「事実だけでは記事にならないという認識に驚いた」とし、「記事に『角度』をつけすぎるな」と批判している。


「角度を付ける」とは何か?

 もし「角度を付ける」の意味が、新聞OBの方の発言通り「事実に独自の解釈を加える」、つまり記事にエッジを付けることを指すのなら、それは必ずしも問題視されるものではない。ネット上でも、同じく「角度を付ける=事実の解釈にバイアスを付ける」との解釈が見られたが、記事からバイアスを完全に排除することは不可能だし、そもそもバイアスの存在自体が悪いわけではない。


 例えば、同じく今年の重大ニュースだったベネッセの漏洩事件について、ある記者は子どもの個人情報が漏れたことを問題視する一方、別の記者は決算への影響を問題にした。同じ情報セキュリティというテーマについても、「ベネッセのセキュリティ体制は問題だ」と解釈する記者もいれば、「セキュリティ対策に熱心だったベネッセですら漏洩は防げなかった。漏洩対策は難しい」と解釈する記者もいるだろう。


 事実の解釈、もっといえば「何を『問題だ』と解釈するか」は、それ自体が記者の存在意義でもある。例え99%の人間が問題にしていなくても、記者が「問題だ」と考えたなら、それは記事になりえる。原発の安全性、子どもの貧困など、当初は大半の人間が問題にしていなかった事象が、後に大きな社会問題になるケースは多い。


 さらに言えば、問題を取り上げる上で「事実を大げさな表現で語る」手法も、必ずしも否定されるものではない。例えば舞台において、役者の衣装が現実以上に華美なのは、現実そのままの衣装だとかえって「みずぼらしい」との印象を与えるためだ。ただ聞いた話を書くだけではどうしても平板な記事になりがちで、一定のストーリーに載せる形で文章を紡ぐ、ストーリーテリングの手法が多く採用されている。


テクニックで事実を誤認させる

 一方、今回の「吉田調書」報道で起きたのは、度が過ぎるバイアスといった話ではなく「文章上の作為で、質的に異なる事実を読者に誤認させること」だった。


 「吉田調書」報道の文章の構造をみると、「命令違反」という言葉を"意図的な違反"と"伝達不備による違反"と広義に設定していることが分かる。その上で、事実は後者(伝達不備)だった可能性も踏まえて表現を工夫しつつ、記事中では大半の読者が前者(意図的な違反=逃げた)と解釈できるストーリーを展開した。


 この問題を調査した報道と人権委員会(PRC)の報告書(本社「吉田調書」報道 報道と人権委員会(PRC) の見解全文1 | 朝日新聞社インフォメーション)には、「バイアス」という言葉も「思い込み」という言葉も出てこない。


 報告書によれば、記事の執筆担当者らは「記事では慎重に『命令に背いた』『逃げた』という表現を用いないという配慮をした。しかし、指示したこととは違う結果になったのだから、『違反』という言葉を選択することは許されると考えた」と証言している。「命令違反」という言葉に、日本語としてはありえるが一般的な用法とは質的に異なる定義(=「指示したこととは違う結果になった」)をあてはめ、それを意識しながら記事を書いたわけだ。後にこの報道への批判が相次いだ際も、担当次長は「少なくとも外形的には命令違反の行為があったことは間違いない」と主張し、この論理で対処していくこととなったという。


 これに対して委員会の報告書は、「違反」という言葉の定義に幅を持たせる手法を認めず「『所長命令に違反』したと評価できるような事実は存在しない。裏付け取材もなされていない」(PRC委員会)と厳しく評価した。


事実誤認の誘導は、メディアの経営戦略としてもダメ

 こうした形での「角度を付ける」行為について、冒頭の新聞OBの証言にみられるように、こうした文章テクニックが通用し、推奨された時代があったのかもしれない。だが、あらゆるメディアの記事がネット上で比較される現在において、こうした文章テクニックを是とするのは、記者の倫理のみならず、メディアの経営戦略としても明らかに悪手だと思う。


 理由は二つある。1つは、こうした誤認の誘導は、それ自体が外形的には「誤報」でなくても、異なる場面で明らかな誤報を誘発するからだ。


 海外メディアは「吉田調書」報道を受け、記事を引用する形で「原発作業員は命令を無視し、逃亡した」と報道した。さらに朝日新聞社内の人間すら事実を誤認し、英訳版では記事タイトルを「90% of TEPCO workers defied orders, fled Fukushima plant(9割の東電所員が命令を無視し、逃げた)」と訳していた。


 報道は、ある特ダネ報道を起点に、カスケード上に広がることがある。それだけに、その起点である特ダネ報道に事実の誤認を誘う表現があると、当のメディアにも制御不能な形で「誤報」が拡散してしまう。


 もう一つは、この手法を是とすると、「誤報だ」「誤報でない」との言い争いが起きやすくなり、それがメディアの信頼を失墜させるリスクが高くなることだ。


 例えば、吉田調書で問題になった「『命令違反』の定義」のほか、慰安婦問題では「『強制性』の定義」、さらには同じく2014年に問題になった特許法改正報道における「『無条件』の定義」でも、まったく同じ対立構造がみられた(朝日西尾邦明記者「『特許、無条件で会社のもの』は誤報では無い」??? - Togetter)。


 今回、朝日新聞が「吉田調書」報道を取り消し扱いにしたのは、その誤認が記事の根幹を変えてしまうケースだったためだ。そうでない限りにおいて、メディア側がこうした手法について進んで「取り消し」「誤報」と認めるのは難しいし、何を誤報と定義するかは最終的にはメディアの判断に委ねるほかない。だが、まさにそのために、「外形的には正しいので、誤報ではない」とするメディアと、「読者を誤認させたのだから、誤報」とする読者側で、不毛の争いを誘発してしまう。この争いが、メディアのブランドイメージにいい影響を与えるはずがない。


まとめ

 「メディアが特定の論調に沿って記事を書く」のと、「文章テクニックで事実を誤認させる」のとは、似て非なる事象です。前者は、むしろメディア空間の多様化に寄与しているところでもあり、これを「角度を付ける」という言葉で同義に語るのはヨクナイ、というお話でした。

吉田調書報道問題の本質は、「思い込み」でも「チェック不足」でもない

 吉田調書報道問題を「記者の思い込み」「チェック不足」「特定新聞の体質」と狭くとらえると、ことの本質を見誤りかねません。いち科学技術記者として、同問題への検証や批判の内容に危惧を覚えたので、ちょっと短く書いてみます。

 
 朝日デジタル版の「吉田調書」報道を読んで、私が一番違和感を覚えたのは、「(事故調査委員会は)772人もの関係者から聴き取りをおこなったのに、『個人の責任を追及しない』との方針を掲げたため、事故の本質に深く切りこめなかった」(『吉田調書』プロローグ http://www.asahi.com/special/yoshida_report/ )という箇所でした。


 「個人の責任を追及しない」という方針は、事故調査委員会のなかでも、おそらくは事故調査に詳しいジャーナリストの柳田邦男委員が提案したものと思います。そして個人の責任を追及しないことは、事故調査の基本でもあります(正確には、資料の公開は妨げないが、その資料を刑事事件の証拠には採用しないことを保証する)。


 というのは事故調査において、その証言が個人の刑事責任の追及に使われると、皆が口をつぐんでしまい、かえって事故原因の究明を妨げてしまうためです。実際、家族を失った遺族が「真実を知りたい」と刑事告訴した結果、関係者が一様に何も話さなくなり、真相を十分に究明できなかった残念な事例は枚挙に暇ありません。


 実際、鉄道や飛行機の事故、医療事故などで「事故調査委員会」方式の採用が増えているのは、これまで警察、検察やマスコミが個人の責任を重視するあまり、真の原因の追及がおざなりになっているのでは、との反省があります。(最近では、情報漏洩などIT分野でも増えていますが・・・)


 朝日新聞が「吉田調書」をデジタル版で解説付きで公開したこと自体は、大きな意義があったと今でも思います。やや無味乾燥で読みづらい事故調査報告書に代えて、臨場感があり、かつ幅広い読者にとって読みやすいコンテンツに仕立てた取材班の力量には、今読んでもうならされるものがあります。

 
 ただそれは、NHK共同通信、ノンフィクションライターらが別の方法で試み、それぞれ成功を収めていたこともでもあります。新聞一面の「スクープ」に当たる新味な情報があったわけではありません。


 一方で、この事故調査資料を使い、事故の拡大につながった官邸、東電幹部、東電職員個人の行動を明らかにするという取材班の方針は、一概に否定はできないものの、極めてリスクの高い、慎重の上にも慎重を期するべき取材手法であったと思います。そのことにもう少し自覚的であれば、今回の事態に至ることもなかったかもしれません。


 警察による供述調書の作成では、供述者は黙秘権を行使できるほか、後で読み合わせや署名などで、供述者の見解と相違がないか確認が行われます。これは、調書が後に刑事裁判の証拠として使われる以上、供述者の人権を保護するための当然の措置です。これに対して事故調査の調書は、記憶違いや言い間違いなどを含め、言ったことが「そのまま」反映されます。


 事故調査資料を個人の責任追究という目的で使うと、どこかで「誰かが判断の誤りを犯していたはず」という予断や、その思い違いを補強するための「資料のつまみ食い」が行われやすくなります。それに反する発言(例えば、吉田氏の「2Fにいったほうがはるかに正しい」という発言)が資料にあっても「当人をかばっているのでは」と軽視しがちです。その結果として「命令の伝達ミス」でなく「9割の職員が逃げた」と解釈できる記事につながった可能性があります。


 デジタル版「吉田調書」記事からは、「原発は本当にヒトが扱えるのか」という取材班の問題意識が(その当否はどうあれ)ひしひしと伝わってきます。その初志に殉じていれば、優れた報道として歴史に残ったのにと、いち読者としても思わずにはいられません。

「書くこと」の倫理

 藤代さんからの問題提起(ヤフー社長室長による「ステルスロビー活動」記事の問題点。自らの利益のためにメディアを使うのを戒めよ(藤代裕之) - 個人 - Yahoo!ニュース)についてつらつら考えているうちに、そもそも日本の大学では「Writing Ethics」または「Publication Ethics」について学ぶ機会が少ないのでは、と思い至った。

 
 この点が、コピペからステマ、ステルス利益誘導、さらにこうした問題への周囲の感度の鈍さを生んでいるのかもしれない。いやそんな解説はいいから、と言われるのは承知の上で、「なぜダメなのか」をしっかり論理立てて説明できるよう、ちょっと書いてみる。

 
 欧米の大学では、他人の文章を盗んでレポートや論文を仕上げる行為、つまり剽窃(plagiarism)は、ときには退学にも値する罪である。学生が授業のレポートを提出用サイトにアップロードすると、自動的にコピペ検出ソフトにかけられ、剽窃がないか常にチェックを受ける(少なくとも、私が受講した通信制大学院はそうだった)。この経験を通じ、学生に「コピペはダメ、絶対」という倫理を血肉に叩き込むわけだ。

 
 もう一つ、書くことにおける重要な倫理の一つに、情報公開(Disclosure)の原則がある。

 
 典型的な例として、新薬の効果検証などの学術論文ではFinancial Disclosure、つまり研究の資金提供元を明記する義務がある。その研究の信ぴょう性を判断する上で、当該製薬会社から資金援助を受けているか否かは、読者にとって重要な情報だからだ。


 「資金援助を受けているから一律ダメ」ではなく、その資金提供の件を含め、読者が総合的に信頼性を判断できるだけの情報を提供する、というのが情報公開のミソである。


 これにとどまらず、外部公開を前提に書いたあらゆる文章について、文章中の主張と著者の間に何らかの利害関係がある場合にはそれを明記する、というのが情報公開の原則だ。欧米の書籍で前文の謝辞がやたらに長いのも、書籍の執筆に協力した人間や企業を明記し、文章をとりまく利害関係を明らかにする、との原則にもとづくものである。


 ちなみに、学術論文における出版倫理(Publication Ethics)の優れた資料はこちら(日本語訳PDF:Author Services)。学術論文の世界は、スポーツのゴルフなどと同じく相互の信頼を前提にしているため、最も厳しい内容の倫理規定を持っている。「利害の対立」の項を引用しよう。

(利害の対立)
 編集者、著者、査読者は客観的にデータを提示し見直す能力に影響を与えると思われる利害を公表する責任がある。これらには、関連する経済的(例:特許所有権、株式所有、コンサルタント、講演料)、個人的、政治的、知的、宗教上の利益が含まれる。


 さて、上に挙げた剽窃の禁止、情報公開の原則は、ニュースメディアにも適用される。メディアにおいて剽窃が重罪なのは言わずもがなだが、情報公開という倫理については案外浸透していないかもしれない。

 
 伝統的なメディアでは、記者と取材対象者は元々は赤の他人であることが多く、直接的な利害関係にあることは多くない。そもそも利害関係の問題が発生しないよう、一般にメディア企業は内規で記者の株式売買を禁止したり、編集と広告の組織を分離したりしている。それでも、編集者として他人の原稿やインタビュー記事をメディアに載せる場合は、その人と主張の間に隠れた利害関係がないかどうかを常に頭の片隅に置き、必要なら問いただすべきだろう。


 さて最近では、業界の当事者がブロガーとして積極的に記事を書くようになった結果、記事の内容がブロガーの利害と関連するケースがしばしば起きるようになった。まさに、今のメディアは「当事者の時代」ということか。


 たとえば技術系ブログメディアのTechCrunchでは、まれに記事の最後に「Disclosure:」の但し書きが登場する。(例:Okta Scores $75M In Final Round Of Funding; Hopes To Go Public In A Couple Of Years – TechCrunch)。「筆者は、文章中のベンチャー企業に出資している」といった事実を明記したうえで、記事の信頼性を読者に判断してもらう、というわけだ。


 それでも、この利害相反問題(Conflict of Interest)と情報公開をめぐる混乱が絶えることはない。いささか旧聞だが、TechCrunch創業者のMike Arrington氏の辞任をめぐるこの記事(CrunchFundとArringtonの編集長離任に関して―われわれの倫理基準に裏表はない | TechCrunch Japan)は、書き手としてのブロガーの倫理を考える上で、格好の教材を提供している。


 というわけで、新旧問わずメディアの信頼性を高めるうえでも、書くことの倫理については粘り強く、指摘や啓蒙を行う必要があると思う次第。コピペ論文が軽々と博士審査を通過したり、軽はずみな書き込みで炎上する人が後を絶たない今ほど、日本の大学には「書くことの倫理」を学生に血肉まで染み込ませる責務があるのではないかと。

画像取り違えは「故意」なのか? 調査報告書を読んでみた

 読みました。研究論文の疑義に関する調査委員会による調査結果に対する不服申立ての審査結果について | 理化学研究所 。仕事が佳境ではあるのですが、たまに違うことに頭を使わないと脳が腐ってしまうので(言い訳)。


 以下、感想についてFacebookに投稿した内容を加筆して、メモとして転載しておきます。


 当初の調査委員長が辞任し、委員長が弁護士の方に代わったためか、調査報告書の口調が前回の最終報告書と一変、攻撃色が強くなっています。ロジックの運び方は、民事裁判で弁護士が提出する準備書面そのもの。いかに相手の言動の矛盾を突き、裁判長に「この人の言葉は信用できない」と思わせるか、プロフェッショナルの技術がこれでもかとつぎ込まれてます。前回の報告書はかなり容赦した内容だったんですねえ。

 
 結論の評価としては、この記事(Wmの憂鬱、隠し球が決めた小保方さんの研究不正確定【日経バイオテクONLINE Vol.2050】:日経バイオテクONLINE Webマスターの憂鬱 Premium)の通り、小保方氏の外形的な研究不正の証拠はほぼ固まった、と評価せざるを得ません。それほどに説得力のある報告書でした。


 ただ画像の取り違えについていえば、明確に「故意」か?と言われると、この報告書だけでは結論が出せないようにも読めました。画像取り違えで報告書が主に証明しているのは、「画像を取り違える可能性が高いと当人が認識できるほどのずさんな管理体制があった」という点、つまり法律用語では「故意」というより「重過失」に近いものです。


 重過失は、民事裁判において故意に近い扱いは受けますが、それでも悪質度では故意の方がはるかに上です。このあたりは、仮に本件が裁判に持ち込まれた際、処分の重さ・軽さについて裁判所の判断に影響を与える可能性があります。


 (その一方、ゲル写真切り貼りについては、今回明らかになったScience査読者コメントの件で、故意がほぼ決定的になってしまったように思います。ただ、ゲル写真の切り貼りは研究の存在を左右する案件ではなく、研究ノートも残っているので、悪質度は相対的に低いです)

 
 いずれにせよ、「無能で十分説明されることに悪意を見出すな」(ハンロンの剃刀)とはよく言ったもので、"悪意"を"無能"に置き換える弁護戦術は、処分の判断に一定の影響が見込めるかもしれません。ただ、自分で「私はユニットリーダーの任に適さない」と自白しているに等しいんですけどね・・・。

STAP細胞をめぐるニコニコ生放送から考えた、科学コミュニケーションの行き着く先

 3月16日のニコニコ生放送八代嘉美+東浩紀「科学と社会のコミュニケーションを考える――STAP細胞をめぐって」実況(2014.03.16) - Togetter)が大変面白かったので、紹介もかね、STAP細胞と科学コミュニケーションについて改めて考えてみたい。前回の記事(2014-02-01 - ITとエレクトロニクスの知的備忘録)の続きと言うことで。


 この生放送で、思想家の東氏、現役研究者の八代氏がいずれも問題にしたのが、理研CDBによる1月末の記者発表で、いわゆる「女子力」に溢れた研究室が公開されるなどの「演出」があったことだ。


 ピンクの壁紙、スナフキンの絵、割烹着・・・それらの要素に計画性があったのか、まだ事実関係は確定していない。ただ、理研CDB広報が研究室を公開し、撮影にも積極的に応じた点で、研究者個人のキャラクターを際立たせたい意図があったのは確かだろう。


 これに対し、八代氏、東氏の両名とも、科学コミュニケーション上のミスと厳しく批判した。


 「あの演出方法に対しては、再生医療研究者の大半は『ふざけるな』と感じていたはず」(八代氏)

 
 「理系、文系の区分は嫌いだが、あれは理系的な手法。文系であれば、あれをやればフェミニストから刺されると分かっているから」(東氏)


 観客からも「日本の科学コミュニケーションの行き着く先がこれだった」などと厳しい声があがった。


 日本の科学コミュニケーションは、どこで、何につまづいたのだろう?


 今から13年前の2001年ごろ、科学記者を志望していた私は、就職活動の業界調査も兼ね、科学コミュニケーションの担い手について以下のような分類を作ってみたことがある。(もちろん、一人が複数の役割を担うこともある)。たぶん、この構図は今もそんなに変わらない。

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1.科学ライター 科学の面白さを伝える

2.科学評論家 狭義の「科学ジャーナリスト

3.科学ニュース記者 ニュースとして科学を速報

4.科学専門記者 主に業界向けに情報を発信

5.科学広報 大学・研究所・企業の広報担当

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 そして、この10年で急速に存在感を高めたのが「科学広報」だった。


 2000年代、予算削減の逆風にさらされた国立大学や研究機関は、研究の意義や実績を社会に広報する必要に迫られた。そこで、各機関が生き残りをかけて力を入れ始めたのが、科学広報活動だった。


 科学広報の業務は幅広い。思いつくだけでも、記者向けプレスリリースの作成から、記者会見や取材、イベントのセッティング、研究者のアウトリーチ活動(=国民との科学・技術対話)の支援、広報誌の作成、国際広報など。たぶんもっといっぱいある。


 「2位じゃだめなんですか」でスパコン事業仕分けの対象になった際は、日本のノーベル賞受賞者そろい踏みの記者会見を開催し、科学コミュニティを挙げて反論してみせた。こうしたパフォーマンスのお膳立てにも、科学広報の力は不可欠だ。


 科学広報の活動を評価する基準はいくつかあるが、その中でも比重が高いのが「マスメディアへの露出度」だ。特に国から予算をもらっている研究機関の場合、政治家に成果をアピールできているかは、死活的に重要になる。この点で科学広報は、インパクトファクターの高い査読誌への論文掲載を重視する研究者とは、やや異なる論理で動いている。


 STAP細胞における「演出」を誰が主導したのかは明らかではないが、私は背景の一つとして、マスメディアへの露出度を高めたいという科学広報の意図が働いたのかもしれない、と何となく推測している。結果として、新聞一面のみならず、社会面を含めかなりの紙面をSTAP細胞に振り向けることができたのだから、効果は絶大だった。さらに付け加えれば、大学の科学広報が推進している「リケジョ」ムーブメントを応援したい、という心情もあっただろう。


 今回の理研CDB広報の意図はどうあれ、もし今回の「演出」が成功していれば、マスメディアへの露出を高める科学コミュニケーションの新手法として定着してしまった可能性もある。それだけに、東氏と八代氏の二人から疑義を呈された手法を含め、例えば以下のようなテーマで科学コミュニケーションのコミュニティが自発的に総括する必要があるだろう。


・研究者の「女性性」を強調する(ように見える)演出は正しかったのか?


・評価が確定しない例が多い万能細胞(例:MUSE細胞、MAPC細胞、VSEL細胞)の分野で、確定的な成果と取られかねない形で広報してよかったのか?


SNSの普及などで企業広報にも機敏な対応が求められる中、ネット上で相次いだ疑義の声に対して科学広報がどこまで迅速に対応できたか?


・「科学の成果を分かりやすく伝えること」と「科学に興味をもってもらうこと」、それぞれの広報活動は区別すべきか?

科学記者の視点から見ても、小保方氏の「女子力」は確かにエポックだった

 STAP細胞研究の小保方氏が、メディアのゴシップ取材攻勢に「研究活動に支障が出ている」と文章を出す事態に発展した件について。


 この件は藤代さんの記事STAP細胞研究の小保方晴子博士が「研究活動に支障が出ている」と報道機関にお願い(藤代裕之) - 個人 - Yahoo!ニュースに全面同意で、ほとんど付け足すことはない。ただ、社会部やワイドショーメディアのおっさん目線には辟易する一方、科学記者の視点から見ても、小保方氏のいわゆる「女子力」に溢れたサイト、机、服装は確かに大きなエポックだったかもとは思ったので、短くまとめてみる。


 一般に、理系女子は研究室では少数派である。このため、同室の男性大学生・院生にとっては数少ない恋愛対象になってしまい、結果として研究室内の人間関係をギスギスさせてしまうこともある。なので、女性研究者は研究室内であえて女性性を封印する、つまり地味な服装をしたり頭をぼさぼさにしてるのだよ・・・と、先輩女性研究者に聞いたことがある。恋愛うんぬんはともかく、あの男性社会で「女子力」を全開にすると、コミュニティで浮いてしまうのは確かだ。


 まあ研究に打ち込むならそれもありかと思いつつ、一部の女性研究者は自分のアイデンティティを抑圧されている、と感じているかもしれない。2010年に始まった「リケジョ」ブームは、女子中高生に向けて大学の理系学部が仕掛けた広報キャンペーンであるとともに、こうした抑圧からの解放を促す運動という側面もあったろう。小保方氏があえて「女子力」を解放してみせていたとすれば、その意図はなんだったのだろうか。記事で「女子力」を取り上げるなら、そうした分析記事を読みたかった。


 でも、研究室に平気で女性キャラのフィギュアとか持ちこむ男子学生はもっとどうかと思うがな! 日本の人工知能ヒューマノイド開発への男性研究者の目線が初音ミクや美少女に向かった結果、「<都合のいい女>を競って開発するような環境に女性研究者として馴染めない」との声が出ている(人工知能学会の表紙は女性蔑視? - Togetter)のはもっと注目されていいと思う。


<追記>はてブTwitterなどの「生物系は女性多い」という指摘は仰る通りです。生物系なら女性割合は学生で約3割、研究者で約2割、さらに分野によって大きく変わるところで、ここは私の文章が舌足らずでした。実際に小保方氏のこれまでの研究環境がどうだったか、については報道では分からなかったところで、小保方氏は元々自然体で「女子力」が高かった、という可能性ももちろんあります。